1〜21話@アニメ『獣の奏者エリン』再考@エリンの木の下で

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ここは、上橋菜穂子さんの長編小説『獣の奏者』をもとに制作されたNHKアニメ『獣の奏者エリン』について語る裏ページです。
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ここを初めて見つけた方には、まずはじめにをお読みいただくことをお勧めします。

1〜21話


2013-03-13 更新

1話『緑の目のエリン』

 冒頭、ダミヤがハルミヤに開戦の報告をしています。ダミヤはそんな権限も情報も握っていないはずなのですが...?
 挿入される戦のシーンも、どこかおかしいのです。まず、戦の始め方。何故か最初はリョザもラーザも騎馬兵同士で戦っていて、途中からリョザの大公軍は鬪蛇部隊を投入していきます。
 しかし原作に記述されているリョザ軍の戦術はちがうのです。
 〈〉が先陣として敵陣を食い破ったところから騎馬兵が突入していくんですよ。そもそもリョザは四代目の王の時代、ざっと200年くらいは前から戦に闘蛇を使っているので、ラーザは鬪蛇部隊があることを承知の上で戦を仕掛けているはずなのです。にもかかわらず、ドラの音を合図に投入された大公軍の闘蛇部隊を見たとたん、ラーザ兵が「鬪蛇だァーーーーーー!!」と、あたかも今まで闘蛇部隊があることを知らず、たった今初めて見たかのように驚いて絶叫するのはとても奇妙。
 原作の戦術を無視してまず騎馬部隊なんかでなまぬるい戦闘をさせ、旗色が悪くなるまで闘蛇部隊を温存していたかのような演出。この冒頭からしてすでに、「?」のオンパレードなのでした。

獣の医術師(=獣医)という職業について

 原作で、エリンは母ソヨンが「闘蛇だけを診る獣の医術師だった」と、のちにジョウンに告白します。そして、アケ村にはソヨン以外にも複数の医術師がいたことがうかがえます。
 エリンがジョウンに連れられてカザルムに来る時には、「医術師」の資格は学舎を卒業すると得られると説明されます。カザルム学舎を卒業すると、獣の医術師の"平師"、タムユアンのような高等学舎(の獣医学科)を卒業すると、同じく"上師"の資格が得られるとされています。身分と序列が正比例しています。教育の機会均等の概念の普及していない、近代以前の階級社会にありがちなことです。
 アケ村の医術師の彼らはどこで学び、その資格を得たのでしょうかね。
 資格=免許とすれば、医術師を名乗るにはやはりそれなりの教育機関を出るか、少なくとも実地研修を積まなければならないはずです。それとも、闘蛇村では単に現場でスキルを積んだものが名乗れたり、世襲でもできることにでもなっているのでしょうか。

 闘蛇の飼育に関わるのは大公領民だけです。大公領にも、そのような学舎があるのでしょうか。鬪蛇専門の医術を身につけるために真王領に越境留学できる制度があるとは思えませんし、学ぶとしても、鬪蛇衆は学舎で学ぶことはできないのだとのちに語られます(この点は原作でも探求編で明らかになる設定なので、若干矛盾を感じる部分ではあります)。
 学舎で学ぶのが鬪蛇衆はNGなのに医術師はOKというのでは、鬪蛇村の人間が知識を得るのを禁じる王祖の意図からしたら、片手落ちになってしまうでしょう。掟の真の目的は、鬪蛇に携わるものが科学的な知識を集積するのを禁じることで、闘蛇の飼育と繁殖に関する技術のイノベーションを防ぐことにあるのですから。

 百歩譲って、闘蛇の医術師となるために学ぶ某かの場所が大公領のどこかにあって、ワダンたちはそこで学んだのだとしたら...? 
 そうだとしたらますます、ソヨンは「師」を名乗る所以のない無資格者だったはずで、鬪蛇衆の中ではちょっと闘蛇の知識が抜きん出ている程度の存在だったと思われます。
 実際に、ソヨンは鬪蛇衆が決して知り得ない、アォー・ロゥ由来の闘蛇に関する知識を数多く身につけていました(探求編でエリンが入手するソヨンの日誌による)が、鬪蛇衆が知らない知識に基づく施術をすることは一族の掟に反するため、ソヨンが鬪蛇衆の中で能力を発揮できる機会はさほどなかったはずなのです。
 するとソヨンがどうして医術師と呼ばれていたのか、「牙」を任せられるほどに重宝されたのはいったいどんな点であったのか...。このあたりは、探求編以降を読んだ後では、上橋先生ご本人もちょっと設定を誤ったと思っておられるのかもしれないな、という気がします。上橋先生がこれ以上外伝なりを書かれないかぎり、明かされることはない謎なのでしょうけれども。

エリンとソヨンの会話

 ソヨンが夜番からもどってきたところで、床の中にいたエリンが目をさまします。

「起こしちゃった?」
「ううん。麝香みたいな闘蛇の匂いがしたから、お母さんだ、って...。」

 ここ、よく聞くと実は、まともな会話になっていません。
 「起こしちゃった?」の問いかけに対しての返事が、「ううん」なのはまだいいとして、それに続くセリフが「麝香みたいな鬪蛇の匂いがしたから、お母さんだ、って...。」とは、どういう意味でしょうか。
 鬪蛇の匂いが麝香に似ているというのは、原作でも冒頭に使われている非常に印象深い比喩ではありますが、「麝香」というものの世の中での認知度(特に、このアニメの対象である現役の子どもとその親世代)からすると、「麝香ってなに?」「さあ...?」で終わってしまう可能性が高いですよね。「麝香(=ムスク)」のことを説明しようとするといろいろとアレな方面の話もあるわけですが。
 「鬪蛇の匂いがしたからお母さんだ、って(思って目をさましたの)」の意味であるなら、すなわち起こしちゃったということになるのだから、「ううん」じゃおかしいでしょ?
 「寝返りを打ったけど起こされてしまったわけではなくて、もともと目はさめていたから、あやまらないで、お母さん」という意味の「ううん」だと無理矢理思うようにしていますが、いずれにせよ、この後50話のストーリーの中で、麝香の匂いに似ているという予備知識の重要性が皆無なのですよ。ならばいっそ、ここはさらっと「鬪蛇の匂いがしたから」でよかったのではと思います。
 とはいってもそもそも、闘蛇の匂いがしようとしまいと、この家に夜中に入ってくる人間が母親以外にいるはずがないんですよね。村人から気味悪がられている異民族の母子家庭という設定なのですから。そうすると、エリンのセリフはまるっと全部おかしい気がしてくるのです。

闘蛇村の緊張感の欠如、鬪蛇衆の子どもと闘蛇の距離感

 1話からすでに、エリンやサジュ・チョクが子どもたちだけで岩房に出入りしています。このエピソードのおかげで、原作の「厳格な掟が支配する闘蛇村と、そのもとに管理され、育てられている闘蛇」というイメージがスポイルされています。いくらナレーションで掟掟と言っても、効果は半減。
 また、原作では、鬪蛇に興味を持っているのは、同い年の子どもの中ではエリンくらいという描かれ方をされています。その事実こそ、獣の医術師を志すエリン個人の資質を明らかにするものであるのに、あまつさえ、のちにルルゥと名付けられる鬪蛇の幼獣が見つかったとき、その幼獣をいともあっさり抱いているのはサジュなのです。

音無し笛

 負傷してもどってきた鬪蛇に付き添っている鬪蛇衆が誰一人として音無し笛を所持しておらず、駆けつけたソヨンだけが持っていて、暴れる闘蛇を硬直させて鎮めるというシーン。
 そこで、チョクのセリフ。

 「凄かったぜー、エリンのお母さん。暴れてた闘蛇をおとなしくさせちゃってさ」

 凄いのは音無し笛の威力で、ソヨンではありません。
 まるで音無し笛を使われた場面を初めて見たどころか、音無し笛そのものも知らないかのような話しっぷりですが、チョクの父親も鬪蛇衆でしょう? 音無し笛持ってないの? 一度も、そういうことをチョクは親から聞かされたことがないの?
 ここだけ見ると、ソヨンやごく限られた人間しか音無し笛を持てないことになっているとしか思えないのです。
 しかし、それは、あり得ないのでは? それほど音無し笛の生産数が限られているはずないでしょう。
 余生を送る弱った王獣を世話するカザルム学舎の学童ですら、王獣に近づくものにはちゃんと与えられて適宜使われているのに、実戦に使う鬪蛇の飼育に携わる現場の人間である闘蛇衆にもれなく支給されていないとか...もうね。ガイガーカウンターを作業員全員に配らない東電かと。
 それに、エリンに襲いかかった闘蛇がソヨンの笛のひと吹きで硬直した表現も、物理学的に奇妙です。
 宙にいるあいだに音無し笛を聞いて硬直したはずなのに、どう見てもその真下に落下しているのですが、それまでの運動エネルギーはどこに行ってしまったのでしょうかw

鬪蛇衆のぼやきの謎

 のちにルルゥと呼ばれる闘蛇の幼獣の姿がイケから消えた時、岩房の中で鬪蛇衆がぼやくセリフ。

「〈牙〉は、大公さまから預かった大切な闘蛇だからな」

 ...あれ?
 「〈牙〉は」って、まるで他はそうではないかのような口ぶりです。
 そういえば、次の2話で登場するタイランが、〈牙〉に関してこんな説明的なセリフを言ってますね。

「大公さまより選ばれたものだけが乗ることを許された、〈牙〉と呼ばれた闘蛇」

 このセリフ自体は、特に間違っているとは思いません。要するに、能力の高い闘蛇乗りはいい闘蛇に乗る資格を与えられる、って言ってるだけですから。けれども、さっきのセリフにおいて、育成・管理を任されたという意味で「預かった」とするのであれば、闘蛇村にとっては、すべての闘蛇が大公からの預かりものと言えるはず。
 多分、「〈牙〉は特別重要なんだ」ってことを子どもに理解できるレベルで表現しようとしただけなのだと思いますが、原作における、〈牙〉は「大公の宝」だと言った監察官のセリフと、音無し笛は真王が大公に授けた「神宝」(闘蛇の笛)であるというくだりから、〈牙〉も〈牙〉以外の闘蛇とは別ルートで闘蛇村に配られたかのような誤解があって、それをもとに作られたセリフのようにも、私には思えてしまうのです。

ワダンのキャラ設定

 ソヨンを忌み嫌うあの態度からして新顔の医術師とも思えませんが、10歳にもなるエリンとずっと同じ村で過ごしてきたにしては「緑の目...霧の民の娘か」などと、村一番の医術師(つまり目の上のタンコブ)の娘エリンとあまり馴染みがなかったような、どちらかというとほとんど初対面に近いようなリアクションをするオリジナルキャラ・ワダン。そもそも医術師って...という疑問についての考察が不完全なままなのですが、ワダンはこの村の人間なのか、外からやってきた雇われなのか、というのが判然としません。

 それにしても、複数いるはずのアケ村の闘蛇の医術師の中で、1話目から大チョンボをするような奴が、ソヨンに次ぐNo.2の医術師とは。あんまりほかの鬪蛇衆からの信頼も厚くないようだし、アケ村の将来って大丈夫なの? 頭領は、ソヨンを村のみんなの反対を押し切って牙の世話を任せたくらいなのに、ワダンみたいな奴をきっぱり切れないとは、人を見る目や部下の管理能力に問題があるとしか思えません。
 こういう特殊な目的のもとにつくられている共同体において、ワダンのような、保身のために言葉を繕ったり他人に責任転嫁をするような輩というのは、最もいてはいけない存在だと思うんです。
 闘蛇の育成だけのために存在している村で、育成を失敗すれば命に関わる立場にいながら、同僚のアドバイスを個人的反感からか単に面倒くさいからか知らんが(多分両方だろうけどw)無視したあげく、言わんこっちゃないような墓穴を掘る。こういうタイプの奴は、きっと相手がソヨンでなくても誰でも責任転嫁をして自分を守ろうとするでしょう。きっと今後も、ワダンは1話のようなケアレスミスを起こしまくって、村を没落させていったことでしょう。最終話で丸くなったように見えたけど、私は信じないよ!!

 思うに、いくら子ども向けだからとはいえ、主人公側への同情をひくためだけに、徹底的にワルでダメな反面教師的キャラ(15話『ふたりの過去』のサマン然り)を用意するというやり方を、上橋さんはあまり好まれなかったのではと思うんですよ。そして、そのダメっぷりを示すエピソードが、「ソヨンよりも長く闘蛇を診ている」医術師としてはありえないような、お粗末なチョンボだった。
 ただ、危惧していたほど、のちのストーリーに絡まないでくれたのが、不幸中の幸いでしたけどね。

その他細かいこと

磨き玉

 ソヨンとエリンのやりとりからすると、すでに日課となっているらしい磨き玉づくりなのに、その役割をエリンが〈今〉突然理解して語り出すのが唐突で説明的すぎます。普通は、初めて作る前に説明するだろうになぁw

2話『医術師のソヨン』

タイランの「牙」の病状の見立て

 戦場から村にもどった途端に餌を食べなくなった「牙」を連れたタイランという武人が、アケ村にたずねてきます。しかもご丁寧に大公に話を通してあるとか。
 頭領は、タイランの村で与えている餌の種類を尋ねます。隣にいたワダンは、ではそれまではなにを与えていたのかをその場で確認しない。
 一見して「おや?」 と思うシーンです。そんな中途半端な問診をする医術師、いますかね???

 食べなくなったタイミングが戦場から闘蛇村にもどったときで、それが餌が魚から山羊に変わった事実とシンクロしているのだから、それさえ聞けば一発解決だったのに、それをあえてせずにひっぱってエリンに謎解きをさせることで、エリンの賢さを視聴者に認知させるためのシナリオですが、私としては、それを真っ先に確かめないワダンとソヨンに対して、むしろプロの医術師としての技量に疑いを抱いてしまいます。
 これは、6話でアケ村の「牙」が全滅した時にエリンが闘蛇の匂いの変化に気づくこととは似て非なることなのです。
 あのときのソヨンは当然気づいていたのです。ある条件下では必ずその現象が起こる(探求編参照)ことを、アォー・ロウの知識として身につけていましたが、あえて気づかぬふりをしていただけなのです。それにエリンが気づき、不用意に口にしてしまったことにソヨンは驚いたのですが、この回のソヨンは、エリンに言われるまでまるで気づきもしていなかったのです。
 このエピソードによって、むしろ村一番の医術師であるはずのソヨンの能力が子どものエリンの洞察力にも劣るなどという、不自然な印象を与えてしまっているわけです。
 エリンの賢さをひけらかしたいなら、ヤギゴロシのことだけでもよかったのではないかな、と思います。あえて餌とヤギゴロシ、二つともエリンに謎解きをさせる必要があったのか...にしても、ヤギゴロシがのちのストーリー展開において重要なアイテムであるならともかく、今後重要な役割を持つ薬草は、特滋水の材料の他には、この回には出ないナツシラセとチチモドキ、それにチチモドキの解毒薬であるツリガネアオイくらいしかないのですがね。

 ところで、ペットの概念がないころの獣医の仕事というのは、人間自身の食料としての家畜を確実に繁殖させるための種付けの技術と、それらの疫病(によって食物が損なわれること)を防ぐことに尽きるはずなので、私たちのリアル地球でも、獣医学において真っ先に対象となった動物は牛・羊・山羊・豚だったことでしょう。
 加えて、『獣の奏者』の世界では、闘蛇と王獣も政治的に利用される重要な生き物なので、この二種の動物に関しての医術も発達せざるを得ませんでした。
 そして、ひとたび人の手に落ちた闘蛇にも王獣にも、山羊肉が餌として与えられています。
 闘蛇は水棲生物なので野生では魚が主食ですが、毎日川魚を捕獲するのは大変だから、人の手で管理・繁殖のしやすい山羊肉を与えているだけのことです。

 しかしそれでも、闘蛇の飼育には水が不可欠なので、タイランの村で魚が一切手に入らないということはあり得ないでしょうね。山羊肉を食べないMy闘蛇に、以前のように魚を、あるいは他のあらゆる食物を与えることを試しもせずに他村を訪ねるという行動がもう、理解不能でした。
 それに、タイランの村とアケ村はそんなに近いのですか? 歩いて3時間とかですか? 闘蛇村は水利のよい地域に点在しているはずですし、牛に引かせた荷車での道中ですから、時間的にも数日はかかっているはず。荷車には闘蛇しか積んでおらず、ヒトの食料も闘蛇の餌も携行していなかったことがわかります。
 ならば道中で何か食料を調達しなければなりません。山羊と魚のどちらが手に入りやすいかと言えば、タイラン自身が言うように魚だったのではないでしょうか。では、その道中、タイランは自分だけ魚を捕って食べながら、闘蛇に餌を与えることだけは一切試していなかったのかな?
 試していれば、アケ村に着くまでにMy闘蛇は治ってしまっていたでしょうにね。

 そもそも、タイランの「牙」だって戦場に出るまでは山羊肉で育てられていたはずなのに、魚の味に慣れたとたんに偏食で飢え死にしそうになるなんて、そんな間抜けな野生動物はいません。飢え死にしそうなほど弱っているのに目の前のものを食べないのなら、それはむしろなにか内面からのシグナルだと考えるべきでしょうね。ストレスからハンガーストライキを起こしているとかw

 さらに余談ですが、王獣の本来の餌は闘蛇です。野生の闘蛇は大公領にも真王領にも生息していることになっていますし、闘蛇は王獣以外に天敵もおらず個体数は充分にあるようですから、もしも闘蛇が人にとってもっと扱いやすい動物ならば、野生の闘蛇を捕獲して餌にすればいいだけです。
 しかし、王獣の餌として闘蛇を毎度捕獲するのはあまりにも人自身にとってリスキーすぎる。そんなことができないほど危険な獣だからこそ闘蛇は兵器になりうるわけで。
 王獣に与えている山羊肉も代用食であることは確かで、まったく、山羊さんには生きにくい世界ですね。

ソヨンの読んでいた書物

 1話の「医術師」というものへの考察と関連することですが、この回では、ソヨンが王都の教導師長が著したという「毒の書」をエリンに見せるシーンが出てきます。こういう世界の書物には「門外不出」のものが多いはずなのですが、いったい、大公領民でしかも鬪蛇衆のソヨンが、どんなルートで入手できるのでしょうか。「毒の書」は普通に市販されている書物なのでしょうか。もしくは、大公が王都で手に入れて(あるいは取り寄せて)鬪蛇衆に与えたとでも...?
 原作では、エリンは文字の読み書きはソヨンから習ったけれども、ソヨンが真王領の学舎で使う書物を持っていてそれを見たことがあるなどとは書いてありませんでした。真王領の辺境に蟄居していた元王都の学舎の教導師であるジョウンのところでエリンが初めて見るはずの「毒の書」を、ソヨンの私物として先に出すことの意味とは? 私には、あまりあるようには思えないんですよね。

ワダンの行為

 ソヨンが頭領からタイランの「牙」の治療を任されているのに、ソヨンに無断で特滋水を与えていたワダン...。毒にせよ薬にせよ、勝手にやりますかね? この村の掟はいったい、どうなっているのでしょうか。
 それに、ワダンの水槽って、柵もなければ闘蛇を拘束する何もなくて、あれではほとんど放し飼いに近いのですが。足枷くらいはしないのですかねw

闘蛇乗りと闘蛇の関係

 今回のエピソードの不自然さの根幹は、戦場では闘蛇の餌は闘蛇乗りが自前で調達するなどという無理設定にありました。
 そんなはずないでしょう、普通に。
 この点は、完結編でイアルたちの部隊がイミィルに入ってクリウと話した時に初めて明確に説明されたことではありますが、ちょっと考えればわかりそうなものだと思うのです。
 ゲリラ戦じゃなくて、大公が陣を張るようなちゃんとした戦をする世界ですよ? 闘蛇乗り自身の餌(食料)の調達も含め、補給部隊のひとつもなくて、2桁以上の人間と人間よりはるかに大喰らいの闘蛇を動員する戦ができるはずがありません。

 もう一点、闘蛇乗りが闘蛇をあたかも"愛馬"扱いしているのも気になりました。不調のMy闘蛇のための医術師を探して、闘蛇乗り自身が連れ歩くなんて、と...。
 実際には闘蛇は、闘蛇乗りとマンツーマンの関係を持っているわけではないはず。闘蛇乗りにとっての闘蛇とは、戦車や戦闘機のように、あくまで消耗品として、いつでも替えの効く存在でなければ、戦場で効率的な運用はできませんよ。

 こうして考えると、エリンの賢さを示すためだとしても、この回のエピソードは大半が不要のものだったと思えてきてしまいます。残っているこの回の重要な役割は、大公領には闘蛇村が複数あること、そして、村ごとに闘蛇に刻む印が違うこと、この二つの予備知識を視聴者に与えることなのです。
 あとは、ワダン氏ねw
 それだけのために作ったオリジナルストーリーとしては、この回はいろんな点でお粗末な出来映えと感じました。

細かいこと

ナレーションの文法

 冒頭のナレーションに一か所違和感がありました。

勇猛な大公の軍は、隣国の侵略、闘蛇の力を使って守っていました。

 この、「を」の使い方は変です。

勇猛な大公の軍は、隣国の侵略を闘蛇の力を使って防いでいました。

 または、

勇猛な大公の軍は闘蛇の力を使って、隣国の侵略からこの国を守っていました。
勇猛な大公の軍はこの国を隣国の侵略から守るため、闘蛇の力を使っていました。

などとするべきでしょうね。

エリン、あんた何様...

 他の方が書かれている再放送レビューでの指摘を読んで、私も大笑いしてしまったのですが、ヤギゴロシの群落が見つかって、村の女総出で除去を行う時に、大人の女の一人(サジュの母?)が、エリンに進捗を知らせるんですよ。「エリンちゃん、こっちはもう大丈夫みたい」って。
 エリン、場を仕切ってますがね、子どものくせに。
 ソヨンの子かつ頭領の孫だから特別扱い? こういう場面では、エリンは単に一兵卒として参加して、それなりの人の仕切りを受けた方がいいと思うんですがね。ここってそうまでして、ソヨンだけでなくエリンも村人に一目置かれているってアピールする必要があったのかしら。

3話『闘う獣』

ダミヤを前にしての教練シーン

 ダミヤのキャラ立ちだけが目立ったエピソードでした。ここでも、1話と同様、暴れだした闘蛇にソヨンが駆け寄って音無し笛を吹こうとするのですが、なんでソヨンが行かなきゃいけないのでしょうか。まわりの闘蛇乗りも全員音無し笛を持っているのだから、騎乗している闘蛇をそれぞれが硬直させてから飛び降りて、そいつを制止しに向かえばいいだけでは? 
 どうも、闘蛇村という地域社会の中での、獣の医術師と闘蛇乗りの役割を混同しすぎているように思えます。両方含めて「鬪蛇衆」であることは間違いないのかもしれませんが、ソヨンをダミヤの目に触れる場所に立たせること自体、そもそも配慮が足りないですしね。

エリンのキャラクターについて

 最初に結論から書くと、今回のルルゥの耳膜を切るときのエリンの思考は、いただけないです。
 闘蛇村に生きる母と自分の存在を全否定する言動を、制作サイドは無自覚にやらせ過ぎています。痛いから可哀想だなんて、ほんとうのエリンなら絶対に言いません。そんな麻疹(はしか)はせいぜい5歳まで。エリンはこのときもう10歳で、原作では最初から「ちゃんとわきまえている子」として登場するのに、これでは...orz。
 上でも書いた通り、この村では、山羊を毎日のように絞めて鬪蛇に与えていることを、エリンが知らないはずはありません。山羊のことだって、エリンは可愛いと思っているでしょう。でも、山羊を殺さないでと言いますかね? それ以前に、エリンはなにを食べて生きていますかね?
 エリンは確かに、生き物を分け隔てなく好きな子供ですが、特滋水のためにトゲラ虫を捕まえるということができる程度には大人なのです。
 なのにこういうことをされてしまうと、現代日本の子供の精神年齢に無駄に迎合した小細工だと思えてしまうのですよ。
 5話の鬪蛇の卵狩りのときに、エリンに卵狩りの邪魔立てをさせるのも同様です。その5話では、エリンがその行いを反省したとナレーションでさらっと説明してすませるわけですが、言うに事欠いて、「自分の甘さを感じていました」とは。
 もう少し言いようってものがあるでしょうに...orz。むしろ私は、そんな脚本の詰めの甘さに呆れてしまいました。

 この、アケ村編全体を通じて描写されているエリンのキャラクターに一貫して感じる不快感の原因は、はっきりしています。
〈エリンが、「わきまえてない(頭の悪い)」キャラにされてしまっている〉のです。
 エリンが闘蛇を侮っているのも嫌でした。
 原作のエリンは、闘蛇の恐ろしさをちゃんと理解していたからこそ、「牙」を任されている母を畏敬の眼差しで見つめていたのに、アニメのエリンは、「あんなおとなしい闘蛇の世話なら自分だってできるもん」って言い草ですからね。それは実は、母の役目を軽んじることにも繋がっているのではないでしょうか。

 そもそも、異世界ファンタジー作品の魅力とは何でしょう。
 現代の世界においても、日本とはまったく違う文化・ルールで成り立っている国がたくさんあり、成人の定義も、精神年齢も一律ではありません。そういう価値観の多様性に初めて子供が気づくきっかけ、いわば「窓」に、物語はなりうるもののはずです。
 『獣の奏者』の世界では、この国の女子は14歳で嫁に行けるのだと、10話で原作にない会話をわざわざ用意してまで説明しているくらいではないですか。それほど、この物語の舞台であるリョザ新王国の住民たちは、もともと精神年齢が高いはずなのです。
 それを、ゆとり世代の親に育てられたゆとり二世にも理解しやすいように、という制作サイドの配慮かもしれませんが、主人公の内面の根幹にまで干渉するこういう改変は、やりすぎというものです。

4話『霧の中の秘密』

凶悪最終兵器、チチモドキ

 その名前を出せば誰でも一瞬にして震え上がるほど、大公領では広く知られている毒草、チチモドキ。
 ならば当然、祝い餅の材料になる草と類似していることも、周知徹底しているはずでしょう。だったら、モノがモノ(祝い餅という縁起物)だけに、なおさら餅を作る時には注意深くチェックするのではないですかね。
 それでも混じってしまった、ということがあり得ないとは言いません。しかし、あまりにも似ていて常に誤食の危険があるのなら、特効薬だって常備していて不思議ではないのですが。たまたま村では切らしていたと...?
 それに、他の方も書かれてましたが、わざわざ霧の市に出かけなくても、ソヨンたちなら自分でツリガネアオイを見つけた方が早いのではと。まったくその通りだと思います。
 だって、7日くらいは持ちこたえられるのだし、2話でソヨンは「毒の書」を持っていることにしたのだから、解毒薬のツリガネアオイのこともそれに出てるでしょ?
 え? ものすごく、一年のうちでも限られた時期にしか生えていない植物だったのですか? それじゃあしかたありませんねw

そのチチモドキ発覚までのエリンとソヨンのやりとりの不自然さ

 ソジュにおばあさんが祝い餅を持ってきた時、エリンはもう、「花みたいな匂いがする〜」と言っています。なのに、ソジュが倒れてソヨンが来るとまた餅の匂いを嗅いで、まるで今初めて気づいたように「おかあさん、この餅、花のような匂いがする!!」って...。
 おかしいでしょ? その流れw
 そうじゃなくて、「そういえば、あの草餅、花のような香りがしていたの、お母さん...」とエリンが言い、ソヨンが「なんですって!?」...っていう展開の方が自然だと思うのですがね。

その他細かいこと

ソジュの父

 休みのはずの日に岩房の修繕(?)をする父。自主的な労働で時間外賃金が出るのか、この村ではw

霧の市に一人で行くエリン

 確かに原作でも「とてもよく効く秘薬を売ってくれる」とソヨンが言う通り、霧の民とそれ以外の国の民のあいだにほんのわずかな接点があるとされていますが、こんな特殊なシステムとは...。
 それにエリン、そのいでたち、誰得www いくら急いでいると言っても寝間着に裸足で取りに行かなくても。あんたが風邪引いてもどれなくなったらなおさら困るでしょうが。

5話『エリンと卵泥棒』

闘蛇の卵狩り

 探求編の後出しジャンケン設定を知ってしまったからこその矛盾がそこここに。これはもう、アニメのスタッフを責めてもしかたのないことなので我慢。

卵の採取を邪魔するエリンの行動

 3話で書いたように、とにかくエリンが「わきまえの足りない子」として描かれているのが耐えられない。

ヌクモクの登場

 探求編・完結編をアニメ化が万にひとつ実現してしまったとしても、絶対に居場所がないオリジナルキャラw
 とにかく心底ウザい。それだけ。

6話『ソヨンのぬくもり』 7話『母の指笛』 8話『蜂飼いのジョウン』 9話『ハチミツとエリン』

 悲劇が待っていることがわかっていても、やっとほぼ原作通りの回が出てきたというそれだけで、心安らかに見られる貴重な4話のあと、原作とは随分違ったタイミングと設定で、とうとうイアルが登場します。
 このアニメの欠陥の多くが、イアルの設定を変更したために生まれたと言っても過言ではありません。
 ひとつを語り出すと、後々のすべてのエピソードに関連する話をしなければならないので、イアルと竪琴にまつわる問題は次のページで別途まとめます。

10話『夜明けの鳥』

イアルの登場シーン

 吟遊楽師の曲が途切れたとたん、間髪おかず「夜明けの鳥」を奏ではじめるイアル。路上ライブで、まだ自分の演奏の余韻も醒めやらぬうちに別の奴に奏ではじめられたら、たいがいムッとするでしょうね。渋谷駅前だったら殴り合いの喧嘩になってもおかしくないw
 それに、ハガルから命が下るまでは自由行動なのか、竪琴なんか弾いて、タルガとエリンの件に割って入る以前に完全に目立っているのですが...。

仮面の男たち(キリク初登場)

 もういまさらどうにもならないことだからどこで触れても同じだと思うけど、この仮面BOYS、どうなのよ。仮面がファッションとして世間に浸透しているのならともかく、とてもそうは見えない保守的な真王領民。普通は仮面つけているだけで充分、不審人物として通報されておかしくないと思うのですが。
 あの格好で、ダミヤの手下として水面下の悪事が働けるとか...もうね、シリアスものでこういうのは、あまりにも滑稽すぎます。勘弁して。

 きわめつけ。彼らは最後には、ダミヤの差し金で堂々とセィミヤの周囲にまで配置されてしまいます。これがほんとうにあり得ない。
 不審者が紛れ込んでも気づけない(個体識別の妨げになる)恐れのある仮面の着用など、重要人物のボディーガードに許されるはずありません。IDカードや免許証やパスポートに顔写真を入れる理由を考えれば、わかるでしょ?
 当然、ダミヤはセィミヤに一応話を通しているのでしょうけどね、よほど納得のいく理由でもなければ、そんな奴らを配置させろと言ってくるダミヤ自身に、セィミヤは疑いを持つべきでしょう。鈍すぎ。
 結局これも、キリクの素性をなんとなく隠蔽しておくため(まあ最初からピンと来てたけど)、そして、イアルを降臨の野のあの場に紛れ込ませるため、なのですよね...。

 堅き楯もキリクたち偽サイ・ガムルも民に紛れて活動すべきなのに、揃いの衣装で「堅気の人間ではありませんよ」オーラを発しまくってしまっているのに、スルーされている不自然さ。
 ど派手なコスチュームで一般市民の中にいる特撮戦隊もののヒーロー側と悪役みたいなチープな「子どもだまし」感が、なんともいえず残念です。

 しかも『監修日記を読むと、この仮面BOYSはマスクの下は全員美男子なんですって。そんな、本筋とまったく関係のない腐向き設定をひねり出して悦に入っていらっしゃる某氏……orz。

 キリクなんて最初から、いらんかったんや!!! と思っている私にとっては、不必要なオリキャラや改変のためにさらに無理設定を重ねていく行為には、何とも言えない虚しさ...言い換えるとですね、ゴミを捨てるためにゴミ袋という名のゴミをお金を出して買う、みたいな徒労感を感じるのです。
 「なるほどGJ!!」と唸るようなものなら、もちろん別ですけどね。そういうのを期待していたけれど、アニメエリンにはそれが残念ながら、全編通しても腕輪とミトンくらいしかなかったということです。

イアルたちアクション担当キャラの超人的な身体能力

 俊足であること、勘が鋭く目がいいこと、弓矢の腕に優れていること...これらは、武人であればさほど不思議ではないことですが、サイ・ガムルを装ったダミヤの手下(キリクたち)も含め、屋根の上で繰り広げる追跡劇や22話での1対2のバトルなど、ファンタジーものだからといって、人間にまでむやみに超常的な能力を与えてしまって良いものか...。
 この先何度かある、ダミヤの手下の仮面どものイリュージョニストのようなふるまいもそうです。
 制作サイド的には「ここが見せ場」と力を入れたようですが、どちらかというと斜め上方向に働いてしまい、リアリティを損ね、笑いをもよおすシーンになってしまってます。

「"空を飛ぶ大型哺乳類"がいるような世界なんだから、人間にこのくらいやらせてもいいだろう」とたかをくくってませんか?

エリンの緑色の目と髪

 イアルから竪琴を託されたパシリ君の来た方角から、遠目で緑の目まで見えるの? どっちかというと、髪の毛のほうがわかりやすくなかった???
 そういえば、3話でも、訓練場で暴れる闘蛇を鎮めに入ったソヨンの目の色を、ダミヤはえらく遠目から緑色だと見抜いていましたが、ちょっとこの国の人は目が良すぎではないでしょうか。
 そう、目と髪の色の設定に関しても言いたいことがあるのですが、それはまとめて最終回で書かせていただきましょう。

エリンのセリフ

「わたし、この歌好きです。<中略> こんな歌を弾ける手で<後略>」

 竪琴で弾けるのは「曲」であって「歌」ではありません。エリンも、イアルに曲名を訊ねた時には、「この曲、なんて名前ですか?」って言ったでしょう?

11話『とびらの中に』

 実はこの11話の項、再放送を見て数日後(6/8)に書き足しています。というのも、ある方のBlogで、この回のアニメオリジナルのエピソードの問題点が指摘されているのを読んで、気がついたのです。
 私も正直なところ、それを読むまでさほど重要視していなかったんですけど、実は原作のサイ・ガムルへの無理解から生まれたかなり不適切なものだとわかったからです。

チチモドキ混入事件@大公城

 冒頭、大公城でシュナンの執務室にヌガンが呼びだされるというシーン。
 大公から真王へ送るはずの貢ぎ物の中に、チチモドキが発見される。しかも発見できたのは、それを示唆する脅迫状が大公に届いたから。
 脅迫状だというけど、脅迫って対価なり何なり、目的がありそうなのにそれには触れられないが、ヌガンは、これをサイ・ガムルの仕業だと決めつけ、真王の命を狙う存在に対しての純粋な憤りを示す。対して冷静なシュナン。

 原作既読者的に、ダミヤの仕業だなと速攻理解できてしまったので、サラッと流しすぎてしまいました。
 原作既読者は無視するとして、このエピソードの目的は、「毒」関連の伏線的なものは別とすれば、なにより、

・この国には以前から、真王の命を狙っているサイ・ガムルという集団がいる

 という情報を視聴者に与えることでしょう。

 そもそも、サイ・ガムルという単語を初めて出すのがこの回です。
 原作では、シュナンがリョザ神王国の成り立ちをひもとくかなり長いモノローグ的なパートで、サイ・ガムルが生まれた経緯が説明されるのですが、その正体となると、探求編でやっと明らかになるという謎の集団なので、アニメ50話中では実は何もせずじまいです。
 シュナンのモノローグそのままだとアニメにはなりくいと判断したのでしょう、今回ヌガンに口に出させ、17話では、宴の前日のダミヤや当日のカイルの口の端に上げさせ、さらに22話で、イアルの夢の中でハガルとイアルの会話の回想という形で過去の悪行を語らせ...という感じに、サイ・ガムルの情報はあえて小出しにされます。
 正体が分からないのをいいことに、ダミヤがサイ・ガムルの名をスケープゴートとして利用していたということが、クライマックスに近づくにつれて明らかになる。いや、ダミヤにしても、サイ・ガムルと名乗ったうえでいろいろやっていたわけではなく、「どうせ奴らだ」というみんなの先入観に委ねていただけなのかも。

 ここでの兄弟の会話に関しては、サイ・ガムルの仕業だと早とちりして、ますます真王をがんばって守らなきゃという方向に思考が傾いてしまう、自己犠牲の美学に酔いがちなヌガンと、事件の裏の本質を探ろうとしているシュナンとの、性格の違いを際立たせるための演出くらいにしか、思ってなかったんです。それがいけなかった。

脅迫の意図とサイ・ガムル

 この、毒草混入とそれをカミングアウトする手紙という二度手間での脅迫行為の意図を分析してみましょう。

  1. こういう工作くらい簡単にできるんだぞ、次は教えないからせいぜいチェックを厳しくしろよ、というメッセージ? つーかそれってむしろ、善意の内部告発???
  2. 大公が真王の下僕に甘んじているのが不満で、こういう手を使ってさっさと真王を殺っちまえよ、という教唆・挑発? だとしても、その手紙にチチモドキを同封すればいいだけなので、わざわざ献上品に毒草を混入しておくなんて手間をかける意味がないような。

 大公に真王暗殺の濡れ衣を着せかねない行為を仄めかすとか、卑怯な手口を唆すとか...どう考えても敵対行為としか思えない。"真王の代わりに大公が国を統べることを望んでいる集団"が、大公に善かれと思ってやる類のことではないんですよね。
 だって、脅迫して追いつめて王の座を奪い取らせた相手に支配されたいと思う人がどこにいるでしょうか? それってSなのかMなのかわかんないよw
 なんかモヤモヤするので、あらためて11話を見て、気づきました。

「サイ・ガムルの連中は、真王さまに反旗を翻し、たびたび事を起こしています」(ヌガン)

 このセリフを口にするヌガンの視点には、何か重要なものが欠けている。
「サイ・ガムルは、自分たち(大公)を祀りあげようとしている集団だ」という事実です。こんなやり方で王位を奪取したいなどとはつゆほども考えていない大公一家にとっては迷惑な連中だから、いまいましく思っていることには間違いないでしょう。だけど、いくら脳みそが筋肉でできているマッチョのヌガンだって、サイ・ガムルの本来の目的は嫌と言うほど知っているはず。
 そのヌガンが、自分たちを脅迫をしてくる輩を、「どうせサイ・ガムルに決まってる」と思うの?
 しかし、この重要な事実はここではなぜかこの時、兄弟の脳みそから完全に抜け落ちています。サイ・ガムルが、自分らを脅迫してきたとほんとうに思っちゃってるみたいなのでした。

 彼らについて、正しい説明が加えられるのは、ずいぶん後のことです。

「忘れるな。サイ・ガムルは大公を国の王にと望む連中だ」(17話、イアル)

 または、釈迦に説法よろしく、イアルがシュナンに言うセリフ

「サイ・ガムルは、真王陛下を狙いつづける輩。その目的は、大公さまを国の王にすること」(34話、イアル)

 うん。視聴者はね、そうやって徐々にサイ・ガムルのことを知っていってもいいの。
 でもね、シュナンとヌガン、あんたたちは、いっときでも忘れるべきことじゃないと思うの。
 あんたたちが生まれる前から首尾一貫して同じ理念で動いている集団なんだから、11話の時だけ都合良く忘れたりしちゃいけないのよ。
 あやまれ!! サイ・ガムルにあやまれ!! >兄弟。

 では、このエピソードの何が原作への無理解なのか、ですが。
 ダミヤは、脅迫状で名乗りはしていないものの、サイ・ガムルに濡れ衣を着せる目的でことを起こしたはずです。
 しかし、とった手段はよくよく考えると、真のサイ・ガムルであれば絶対にやらない行為(主への脅迫)なのです。
 このときシュナンとヌガンの脳の不揮発性メモリが正常に機能していれば、自分たちを陥れようとする「サイ・ガムルとも別の誰か」の出現に気づいていたはず。それを全力でスルーする兄弟△ー!! みたいなw

 むしろ、このエピソードって、既読者には、本当のサイ・ガムルとも別の陰謀を企むもの(ダミヤ)がいるんだよって仄めかしちゃっているように見えるので、それが狙いだったのかな? と思ったりもしたのですが、多分違うのでしょう。
 原作のサイ・ガムルの生まれた背景や理念をまったく無視して、適当やらかしてしまいました...ってこと、なんですよねぇ...orz。

 それにしても、この回では、シュナンとエリンが同時並行して、4話『霧の中の秘密』以来の「毒の書」「チチモドキ」というアイテムと関わり、それが34話『イアルとエリン』での同時多発毒草テロの解決に繋がるのです。ずいぶん念入りに伏線張りをしてますよね。
 そのきめ細かい配慮がどうして、次のページで扱う問題の数々に関しては為なされなかったのか、ほんとうに残念でなりません。

12話『白銀の羽』 13話『王獣の谷』 14話『霧の民』

 13話のチゴの根エピソードは邪魔者が二匹いるけどおおむね原作通りだし、14話は、よくある「総集編という名のスタッフの息抜き(もしくは制作進行の遅れを取り戻すための手抜き)回」ですから、さほど気になりません。
 12話のカロンが絡むエピソードは大きな問題につながりますので、次のページで取り上げます。

15話『ふたりの過去』

エサルを忘れまくっていたジョウン

 アサンが訪ねてきて、いよいよエリンとの暮らしをどうするかという瀬戸際になるまで、王獣フリークの旧友エサルを微塵も思い出さなかったジョウン。ジョウンにとって、「王獣と言えばエサル」っていうくらいに印象深い存在だったはずなのに、これほど唐突に思い出されると、あまりに冷たいというか、むしろ健忘症でもあったかとすら思ってしまいます。
 エリンが王獣に興味を持ち始めた時期、すなわち、カロンの登場したあたりでせめてひと言でも、そんな友人がいることを仄めかしていれば自然だったのに。原作ではちゃんと、エリンは以前にジョウンから聞かされていたことになってます(闘蛇編p.229)。そういう気配りが欲しかったんですよね。
 この先、18話でエサルと再会するときのやりとりからしても、エサルが28話でジョウンを回想するくだりもからしても、この二人は、互いをすっからかんに忘れていられるような浅ーい交友関係ではなかったことを示しているだけに、ほんの少しの伏線張りを怠ったことが残念でなりません。

ニイカナの卒業試験

 ニイカナに、原作にはない役割を持たせています。家が貧しいのでこれ以上の学費が工面できない、だから上には進めない...それはいいでしょう。
 だけど、「だから"卒業"試験を受けない」って...。
 エエエエエエエ!!!!!????? 卒業試験って、任意受験なのか。
 せっかく6年もなけなしのお金で勉強して来ながら、あえて中退しますって!?
 じゃあ、何のために勉強してきたの? 「卒業」の二文字を履歴書に書くためにじゃないの!? ニイカナにとって勉強って、そんなことに拘らないほどの単なる趣味だったの...?

 好意的に解釈すれば、

・卒業試験と言っても、それは進学や官僚の道に進む権利を得るためのものであって、卒業試験に落ちても、それどころか卒業試験そのものを受けなくても、タムユアンという学舎は卒業できるらしいよ!

 しかも、

・卒業試験を受けて、良い成績を取ってしまうと、絶対に上に進学しなければいけないらしいよ! 拒否権はないらしいよ!

 ということになってしまいます。
 そうでないなら、

・卒業試験そのものが、受験料がとても高くて、ニイカナにはそれが払えなかったらしいよ!

 と考えるしかないのです。

 どれも、「う〜〜〜〜〜〜ん....???」じゃありませんか?
 原作通りの「最終試験」のままだったら、それが卒業の可否を左右するかを匂わせずに済み、かつ、進学や就職への関門としても自然に理解できたはずなのに...。
 と思ったらなんと、エピソードの途中からは一転して、「最終試験」とジョウンは言ってます。
 用語の統一をミスったのか...トホホ。
 少々揚げ足取りになってしまいましたが、原作通りの「最終試験」という言葉を使わずに「卒業試験」と言い換えておきながら、用語の統一を怠り、突っ込む隙を作ってしまうことが、脚本家の仕事なのでしょうか。

サマンとジョウンの人物像

 サマンの悪っぷりを際立たせるために、カンニングの常習者であったという設定とか、ニイカナとジョウンの会話に割って入らせてのいかにも憎ったらしい一連のセリフとか、仕込みすぎです。
 あげくの果てに、サマンを陥れるためにジョウンに問題すり替えなんて姑息なことをさせたせいで、後味がとても悪いエピソードになりました。
 要するに、このアニメのジョウン像は、底が浅いのです。これでは自分の企みを棚に上げて、自分への仕打ちに拗ねて世捨て人になったみたいじゃないですか。

 原作のジョウンが厭世的な暮らしに身を落とした理由は、サマンを死に追いやってしまった己の教導師としての適性に疑いを抱いた――つまり、自分の人間性そのものに絶望したからです。
 そして、タムユアンにもどることを決心した一番の理由は、不遇な目に遭わせているかもしれない自分のかつての教え子たちに対する懸念・責任感だったはず。ジョウンが自分に忍び寄る死の影を察知してエリンの行く末を案じたエピソードとともにざっくり切り捨てられてしまっていますが、ここは、切り捨てていい部分とは思えませんでした。
 なぜなら、「自分が何かをしないと自分の大切な人たちに迷惑がかかる」という場面が、のちにおとずれるからです。ラザルに呼ばれ、ダミヤにカザルムの仲間を人質にとられたくなくば、王獣部隊を作れと脅されたときのエリン自身にです。降臨の野でもそう。ジョウンの述懐は、己の幸せだけを追う生き方への問いを投げかける、たいへん重要なものだったのですよ。
 それをちゃんと描かずに、さもサマンは自殺して当然のごとき悪者設定を施し、義憤にかられた視聴者に「ザマーミロ。タカランは失脚したんだ、よかったね」とお手軽なカタルシスを与えてしまった。
 こんなふうにしてまで、ジョウンが元の世界にもどっていくまでの葛藤を単純化・矮小化してしまう必要が、ほんとうにありましたか?

16話『堅き楯のイアル』

 この回もイアルの設定改変に絡んだ問題がありますが、次のページでまとめます。

17話『狙われた真王』 18話『教導師エサル』 19話『カザルムの仲間』 20話『リランという名の王獣』 21話『消えそうな光』

脚本のミス三題

 まず、17話。一年ぶりに謁見した真王とシュナンの会話。

ハルミヤ「あの幼かったあなたがなんと逞しい若者になったこと。もう二十歳になるのですものねぇ。
     あまり言いたくないけれど、わたくしが年を取るわけだわ」
シュナン「三年前に、父の丈を越えました」

 このシーンはほぼ原作を踏襲しているのに、どこか噛み合わないやりとりになってしまっています。原作既読者はそこを脳内補完してしまえるのですが、アニメだけを見ていたら違和感を感じるのではないでしょうか。
 ハルミヤがみずからの老いに対する愚痴をこぼしたのに、シュナンは妙に唐突に身長のことをアピールしていると思いませんか? このタイミングでこんなこと言われると、なんか、「別にそんなこと聞いてねーよ」的な突っ込みを入れたくなります。
 なぜこうなったかというと、原作では上記のシュナンのセリフの前にあるハルミヤのセリフを、一節削ってしまっているのです。

ハルミヤ「もう、お父上を、頭ひとつ越えてしまっているのね」

 この一言を受けてのシュナンのセリフだからちゃんと噛み合うのです。雰囲気優先で、会話の上澄みを適当に攫うような省略をするとこうなる、という例。
 こんな数秒程度のセリフをわざわざ削って、何をしたかったんだかなぁ...。

 次に、18話冒頭のナレーション。

「カザルムで、王獣の獣の医術師になりたい――。エリンは、そのための入舎ノ試しを受けるため、ジョウンとともに、カザルム王獣保護場にやってきました」

 一文中で、しかも近距離で「ため」を重ねるのは聞き苦しいです。

「エリンは、そのための入舎ノ試しを受け
 の方が、自然ではないですか?
 ついでに言うなら、「王獣の獣の医術師」は、「王獣の医術師」または「王獣を診る獣の医術師」の方が良いし、「カザルム」も二つ含まれていますが、文頭のほうは省略できる気がしたのですけどね。

 次に、19話の終わり近くですけど、やはりナレーション。

「"王獣の子"――その言葉にエリン、カショ山で見た王獣の親子の記憶よみがえりました」

 一見して、文法的におかしいですよね。お気づきですか?
 主語が一文中に複数存在しています。
 上橋節を正しく使うなら、

「"王獣の子"――その言葉は、カショ山で見た王獣の親子の姿を、エリンの脳裏に鮮やかに呼び覚ましました」

 あるいは、

「"王獣の子"――その言葉を聞いたとたん、エリンの脳裏に、カショ山で見た王獣の親子の姿が浮かびあがりました」

 ではないでしょうか。

エリンの妙な卑屈さ

 19話『カザルムの仲間』で、歓迎会で寝落ちするというアニメオリジナルの失態のあと、エリンは集団でする規則正しい生活への戸惑いをユーヤンに打ち明けます。原作にもあるやりとりなのですが、何故かアニメのエリンのセリフには、必要以上の卑屈さが上乗せされています。

「わたし、みんなと違ってへんてこりんで、でも、もう帰るところもないしここでみんなと同じように、ちゃんとやらなきゃって……」

 エリンの境遇からして、寄宿舎生活に慣れるのに多少の時間がかかることくらいしかたがないと思いますが、それを「へんてこりん」という言葉で片付けてしまうのはいかがなものでしょうか。へんてこりんというと、単に新しい環境に不慣れであるというのとは別次元の、たとえば「奇行癖」のようなものを連想してしまうのですが。

14歳は結婚できる歳、だったよね...?

 そして、ユーヤンとのやりとりのあと、エリンは級友へのお詫びとお礼としてあることを思いつき、ユーヤンとともに実行に移します。
 男子たちを叩き起こし、王獣が見える場所に非常召集をかけて、とっておきの蜂蜜をふるまうのです。
 この部分は原作にはない、無駄に道徳的なオリジナルエピソードで、私はこういうのを見るとケツが痒くなってしまうのですが、それでは済まされない問題もあったのです。

 エリンとユーヤンは、準備のためにずっと学童服だったのでしょうけれども、叩き起こされた男子は全員寝間着姿です。14歳の野郎どもが、寝間着姿で女子と対面...。

 みなさん、中学の林間学校とか修学旅行で、男子と女子がパジャマ姿で一緒に過ごしましたか? 過ごさないですよね。18と16でやっと結婚が許される日本人の男女なら、14なんてまだ子どもなんだからいいんじゃね? と思われるかもしれませんが、エリンの世界ではそうはいかないのです。
 16話を思い出してください。エリンが王都の街中で首飾りを売りつけられそうになった時、こんなやりとりがあったじゃありませんか。

「嫁入りだとぉーーー!? この子はまだ14だぞ」(ジョウン)
「あらお客さん、14といやぁ、立派にお年頃じゃないか」(露店の女主人)

 つまり、リョザ新王国では、14の男女はもう立派な婚姻年齢なのだから、パジャマ姿で親睦を深めるなんて、そんなはしたないことはしてはいけないでしょ?
 スタッフは、たった3話前に自分で設定したことや書いたセリフを覚えていられないのでしょうか?

 さて、次はいよいよ最大の問題、イアルにまつわる原作改変のことを、22話と絡めて一気に語ります。