22〜44話@アニメ『獣の奏者エリン』再考@エリンの木の下で

annex_logo.pngspace.pnganime_erin_logo.png
ここは、上橋菜穂子さんの長編小説『獣の奏者』をもとに制作されたNHKアニメ『獣の奏者エリン』について語る裏ページです。
エリンの木の下で Copyright 2010-2011 kemomo. All Rights Reserved.

ここを初めて見つけた方には、まずはじめにをお読みいただくことをお勧めします。

22〜44話


2013-03-13 更新

22話『竪琴の響き』

 前のページで吐き出してすっきりしたので、あれ以上の突っ込みどころはさほどないのですが、それでも二点だけ。

ワジャク街、というもの

 アニメオリジナル設定の、王都の下街にあるらしいワジャク街。
 しかし、王都にワジャク街と言われるようなものは、原作の方にはあったのやら。
 原作の完結編の最後の最後で、エリンの死後ようやく"真王領と大公領の境が消え"たことになってますから、それまではそんなに自由な往来とか、大公領民が真王領に住み着くとか、許されていなかったはずなんですよね。
 これが10話でエリンがジョウンと行ったサリムの街だったら、まだありうると思うんです。あそこはジョウンの住む地域に近い交易の要衝だからジョウンがよく行くことになっている。そもそもジョウンの住んでいたサンノル郡が真王領の辺境で、エリンの住んでいた大公領のアケ村と川が通じていて、その川のお陰でエリンは闘蛇の背に乗って辿り着いたわけです。
 だけど、王都はそういう場所ではない。大公領とは随分距離があるはず。なのに真王の膝元に、胡散臭い連中が紛れ込むのが可能なスラムみたいな場所ができるのを許すかな?
 じゃあなぜこんな設定を作ったかというと、イアルさんに仮面の出所を探らせ、そこを仮面どもに目撃させ、襲われさせ、最終的にはヤントクの店に行かせて、自力で竪琴を作れる腕があるのに何故かヤントクを頼ってきたエリンと偶然の再会をさせるというご都合主義のためなんですよね。

「調律」とはなんぞや?

 エリン、それ調律ちゃう、ただの演奏やでw
 大体、これから細工始めるってときに調律しても意味ないでしょうに。

23話『カザルムの誓い』 24話『嘆きの歌』 25話『ふたりのおつかい』 26話『リランの心』 27話『ヒカラにおちて』 28話『ジョウンの死』 29話『獣の牙』 30話『四年目の冬』 31話『光の空』

 原作厨的には「存在しないエピソード」が混じりますが、それなりに悪くないと思えるところもあり。
 27話...まあ、あってもいい。
 25話...見飛ばしているので気にならない。
 そのくらいですかね。
 前にも書いた通り、28話でエサルが過去語りをしますが、こんなにジョウンと仲が良かったのに、15話でのあのジョウンの仕打ち...。ひどいですね。

脚本の不手際2点

エリンが王獣を「群れる動物」と認識するタイミング

 26話、エリンがエサルのところに相談に行った場面で引っかかったこと。
 人間の言葉は覚えても、王獣の言葉は覚えられないのでは...と懸念するエリンに、エサルはその心配は必要ないと言い放つのですが、問題は、次のエリンのセリフ。

「どうしてですか? リランが、野生の群れに戻れなくなるんですよ!?」

 はいこれ、ダウト。
 このころのエリンは、王獣が群れを作る動物だとは認識していません。原作でももちろん、「群れ」なんて言葉を使っていません。
 エリンがカショ山で見た野生の王獣は親子で、群れを見たことはありませんでした。王獣がほんとうに群れる動物だと確証を得るのは、完結編で王獣捕獲者の話を聞いてからのこと。
 29話、エリンは動物の生態を学ぶ講義で、群れを作る動物の例として板書された猿やオオカミや羊の絵を見て、教導師にこう質問します。

「あの、王獣も同じなんですか?」

 そのとき、教導師は「まだわかっていない」と答えています。そして、のちの35話『あたらしい命』で、生粋の野生児エクとも自然に声を交わしたリランを見て、エリンはようやく、王獣も本来群れる動物なのだろうと考えはじめるはずでは。
 だから、このときトムラと、こういう会話をするのでしょ?

「そんなふうに、たがいに声で意思を通じ合わせてるってことは、王獣が群れで暮らすっていう話、案外ほんとうのことなのかもしれないな」(トムラ)
「そうですね。一人きりで生きていくなら、意思を通じ合わせる必要はありませんね」(エリン)

 そうすると、26話の時点では、王獣が群れて当然といわんばかりのセリフは、不適当でしたよね。

外来語はご遠慮ください

 28話『ジョウンの死』で、言葉選びに関してのミス。

「今日は、さっぱり冷たい野菜のスープとファコだってさ」(ヌック)

 うっかり見過ごしてしまうところですが、痛いです。50話中で、唯一の外来語。これは、使ってはいけない単語です。
 『獣の奏者』しかり、『守り人シリーズ』しかり、上橋先生の異世界ファンタジーでは、オブジェクトの名称に外来語を決して当てはめません。ファコをパンと呼ぶことはしないし、花や動物の名も独自の呼称を用いた上で、わたしたちの現実世界の○○のようなもの、と表現する。その徹底ぶりは、原作読者なら誰でも知っていることです。
 ある特定言語圏での名称を用いたオブジェクトが、おのずとその言語圏の文化的背景や宗教と紐付けされてしまうことを、上橋さんはかなり意識的に避けられているのです。
 『卓袱台』と『テーブル』はイコールじゃないし、『畳』と『カーペット』も別物。
 昨年の講演会でも、翻訳に際しては、細心の注意を払われていると先生はおっしゃってました。

 なのに、『スープ』...スープがOKなくらいなら、最初っから「スープとパン」で済む話だけど、それをしないのが上橋ワールド。そんなこともわかってないのか、と。
 オリジナルのエピソード、オリジナルのキャラに言わせるセリフだけに(原作に該る必要がない分だけ)、チェックが甘くなってしまったのでしょう。
 ...だから、余計なことをしなければいいのに、と思ってしまうのですよね。

キリク登場

 One of 仮面BOYSにすぎなかったキリクという男が教導師に化けてカザルムにやって来るという知らせ。彼についても思い入れの湧かなかった私としてはね...DDE(どうでもええ)です。

32話『大罪』

 原作をそこそこなぞっているように見えつつ、どうも違和感を感じずにはおれない回。
 ナソンが語るリョザの起源に関する話の中で、オファロン王とジェが二人して口にする、「夢で光り輝く王国」っていう陳腐で薄ら寒い単語に、体温を奪われてしまうのです...orz。

 そもそも原作のオファロン王って復讐心の塊みたいな暴君で、謀反を起こされたのも身から出た錆、あんまり感情移入のできないキャラだった。ジェの方も、別に彼の言葉に崇高な理想を見いだして助力しようと思ったわけではなかったような。
 いまいち正当化しにくいオファロンに向かう動機を説明するのが難しかったのだろうけど、だからといって、夢(=侵略した国から搾取したもの)で光り輝く国家を夢見ていた馬鹿に妙な善人臭をまとわせないでほしい。
 この「夢で光り輝く」というフレーズといい、この先多用する「清らか」ってワードといい...なんだか歯が浮くような言葉選びのセンスが気になります。ボキャブラリー、貧困すぎないですか?

 さてそんな中、小さなようで大きなチョンボが。

王獣は、いつから王獣と呼ばれるようになったんだっけ?

オファロン王「なんと……見たこともない獣が、闘蛇を食らっているッッ!!」
ジェ    「あれは王獣と言って、闘蛇を食べて生きているのです」

 気づきましたか?
 原作では、オファロン王がジェと出会った時、その獣はただ単に、「巨大な翼ある獣」と呼ばれていました。王獣と名付けたのはオファロン王自身。この獣の威力に魅せられた彼が、かつての自分の姿を重ね合わせて名付けたのであろうことは明らかです。
 一方、ジェの一族はそれまで、「王を戴く国家」に属さず、あるいは属している自覚もなく生きてきたので、王という称号にも、王の持つ権力にも、何ら拘泥していなかったのだと考えます。
 とすれば、

 概念を知らぬもの、それを必要としていないものが、その言葉を使うはずがない。

 なのに、アニメではジェがオファロン王に「王獣」だと教える。この違和感に気づかなかったのでしょうか(先生にも、チェックしていただきたかったな...)。

原作に先んじすぎた謎解き

 そういえば、何度も見ていながらうっかりスルーしていたのですが、ナソンはこの時、ある重要な事実をさらっとカミングアウトしてしまいます。原作にはないセリフで。

「闘蛇を人の手で増やすことがないように、繁殖期を迎えた闘蛇をあえて死なせて、掟を守り、操者の技を大罪と呼んだ、ソヨンの思いを受け継いでほしいのだ」

 これも結構、大きな改変ですよ。
 なにしろ、アケ村で死んだ闘蛇が繁殖期に入っていたことなど、このころのエリンはまだ知らなかったのですから。
 原作で、エリンが王獣編の終わりまでに得ている知識は、"特滋水は王獣と闘蛇の発情を抑え、繁殖をできなくするらしい"というところまで。リランの発情と交合が起こったあと、エサルとの会話の中で、特滋水を与えなかった個体(リランとエク)だけが発情したのだからそうに違いない、という状況証拠と、過去のソヨンとのやりとりが結びつき、その推測に思い至るのです。それはアニメの流れでも、3話もあとの35話以降のことです。
 なのに、まだ交合どころかエクも登場しないこの時点。ナソンはずいぶん早く、知らせなくても良い事実を知らせてしまったことになる。さんざん情報を出し惜しみするケチな民族のくせに、どうして、このことだけ告っちゃうかな?

 さてこのセリフ、どこから持ってきたのかと調べたのですが、降臨の野の出来事の前、湯浴み場でセィミヤに謁見した時にエリンが言った原作のセリフをアレンジして使ったと思われます。

人に飼われた王獣が増えることがないように特滋水を与えて発情を抑え、細やかに意思を伝え合う習性がある王獣と、人が、意思を伝え合ってしまうことがないように、世話をする者に音無し笛を使わせて、目に見えぬ冷たい壁を、王獣と人のあいだに築いた……」

 ただし、この時ですら、エリンは王獣の発情の抑制をする効果のことしか語っていません。王獣と闘蛇に与えるものの成分が共通である以上、生殖に影響のあるなにかが含まれているにちがいないとエリンは察していますが、だからといって、王獣は特滋水で中毒死したりしてませんからね。闘蛇の生死を左右するような成分でもあるなどとは、夢にも思っていないでしょう。
 ならば当然、エリンは、ソヨンが繁殖期の闘蛇をわざと見殺しにしたなんてことには、ここではまだ、気づいてはいけないのです。

 死ぬ闘蛇の性別、特滋水が闘蛇にどう作用するか、どんな条件が揃うと大量死が起こるのか...。それらはみんな、11年後の探求編の中でトカラ村の調査をしたことによって、やっと明らかになること。
 と、いうことは。
 こんなに早くエリンが闘蛇の大量死の原因を知って(知らされて)しまった以上、探求編の冒頭のトカラ村の調査にすんなりと繋げることに無理が生じる材料がまたひとつ増えてしまいましたね。

 これは私の推測ですが、この脚本を書かれるまえに、スタッフは探求編のゲラを読まれていたのではないですかね。だから、探求編で初めて明らかにされた事実と、それまでの既知の事実を混同して、このセリフをうっかり編み出してしまった。
 いや、でもそんな推測は、脚本家に対してあまりにも失礼ですよね。
 そうでないとしたら、どう考えるべきでしょうか?

 探求編以降を続編として制作することはどうせないのだという前提の上で、あえて過剰ともいえる謎解きをナソンにさせた。

 わたしは、そう思いたいですね。ええ。

33話『飛翔』 34話『イアルとエリン』 35話『あたらしい命』 36話『卒舎ノ試し』 37話『誕生』 38話『真王ハルミヤ』 39話『闘蛇の襲撃』 40話『かげりゆく国』 41話『真王の真実』 42話『セィミヤの涙」 43話『獣ノ医術師』 44話『アクン・メ・チャイ』

 34話は、上橋先生ご自身のプロットによるオリジナルの回(「アニメ監修日誌」によると、結構藤咲氏の手が加えられているようですが)。
 初めて見た当時は吊り橋効果とかいろいろ美味しいシーンも楽しめたのですが、この回を容認するためにすべての改変に目をつぶれるかと聞かれたら、「否」なので。先生ごめんなさい。

わたし、超美味しいこの回がなかったことになるとしても、正したい改変が、あるんです。

とでも言っとくか。

 さて、このあたりでは、話の辻褄よりも、セリフや演出まわりのちょっとしたところで気になることが多かったです。

「?」なセリフ、「???」なロケーション

 原作では、エサルに許可を得るほどのこともなく行われる真王の御座船の見物エピソードですが、アニメでは、ちょっとした笑いを添えるためという安直な意図のもと、教導師長室でトムラたちがエサルにうやうやしく自然観察をしていいかともちかけ、エサルに釘を刺される、という場面が突っ込まれます。
 そのときのセリフ、ほんの一か所ですが、わたしはここでいつも、一瞬思考停止してしまいます。

「でも行きすぎて、展望の丘から足を滑らせてはだめよ」

 ええと、脚本家の方は、「丘」とはどんなものだと認識していらっしゃるのでしょうか。
 一般的に丘とは、"山よりは低く、かつ傾斜のゆるやかな地形"と言われます。足を滑らせるような場所ではないと思うのですよ。足を滑らせる危惧のあるような場所は、丘とちゃうんじゃないかと。
 そして、いったいどんな険しい丘かと思いながらその場所を見ると、これがまた、どこからどう見ても、見事にオーバーハングしてる崖ではないですか。その絶壁っぷりといったらもう、船越英二が現れたとしても驚かないですよ、私は。
 もうちょっと、正しい言葉を正しい画(え)に当てはめて使いましょうよ。別に、「展望の崖」に変更してもいいですからw。語感のために「丘」を原作のままにしておいて、間違ったビジュアルや表現と合わせて使わないでください。「丘」とはああいう場所のことを指すと、小さなお友達が間違って覚えてしまったら、どうするんですか!?

不用意なセリフの使い回し

「王獣が――人を乗せて、翔んでいるッッ!!!!」(キリク、31話)
「王獣が――人を乗せて、翔んでいるッッ!!!!」(イアル、39話)

 こういうの、私は気になるのですが、気になりませんか?
 一人のキャラが何度も同じ言葉を言うのは単なる口癖ですから、むしろキャラ立ちのためには必要なものですが(でもモンモンはウザい、そもそもヌクモクがいらないw)、性格も身分も育ってきた背景も違う別々の人間が、それこそ「異口同音に(まったく同じセリフを、ほとんどそっくりの"タメ"で)」口にしています。その上BGMも、このセリフの瞬間のパートもほとんど同じで、激しいディジャ・ヴュ。これ、意図的なものなのだろうと思いますが、単なるワンパターンの演出に感じられて逆効果。私には、キャラの「個」を描き分けるべきシナリオの手抜きに思えてしかたがありませんでした。

 意図的でないとしても、これ一か所だけなら、まあ、偶然の一致か、しかたがないな...と思いますけど、同じセリフの使い回しは、他にもある。

「この国は――、……滅びるッッ!!!」(ハガル、イアル、シュナン)

「○○○なら、自分にも出来る」(堅き楯A、キリク) ※○○○は、応急処置だったり、血止めだったり

 聞くたびに、微妙な気持ちになるんですよね。なまじ、原作にないキャラとか、原作にないシーンで言わせているものが多いだけに、余計にテンプレ臭がしてしまいます。もうひとひねりして、耳から飛び込んで来る印象が似通いすぎないようにしてほしかった。

奇妙な音楽の使い方

 エリンの劇伴音楽はメロディーラインがはっきりしていて憶えやすいものが多いです。そして、わりとしつこく使い回されることが多い。視聴者は知らず知らず曲を刷り込まれてしまうので、覚えた曲が流れれば、意識は嫌でもそれに引き寄せられてしまうものです。
 それ自体は悪いことではありませんが、意識が同調しようとしているのに裏切られた時、ヒトの脳は、非常に不快に感じてしまうものなのです。

 40話『かげりゆく国』で、カザルム侯の館で負傷した楯の手当てを終え、エリンが「夜明けの鳥」を奏でるシーン。
 フェード・イン気味で始まりますが、もうすっかりおなじみの曲ですから、誰でも気持ちよく一緒に口ずさみたくなるところでしょう。
 しかし、よりによってこのサビの部分で、あるまじきバイパスが行われています。
 音符で書けないので便宜上歌詞を引用しますが。

「鳴くな夜明けの 鳥よ鳴くな そなたの声を 思い出すから」

 この、赤字部分のメロディーがカットされているんですよ。この気持ち悪さと言ったら、並大抵ではありません。
 これで節約できたのなんて、ほんの数秒です。この程度の尺なんて他にまだいくらでも削る余地があるのに...。

 こういう小細工、一度だけじゃなくて、別の回、別の曲でもやっています。
 44話『アクン・メ・チャイ』で、エリンがダミヤの前でラザルの王獣(原作ではサワンという名)を鎮める時に奏でた曲の途中で、2小節分だけ、不自然に曲が継ぎ足されているのですが、ここも、尺合わせなんてこのシーンの前後でいくらでも出来るところなのです。 
 意図が分からない小細工は、単に不快感をもよおさせるだけで、なんの得もありません。
 このようなBGMの使い方をする作品って、多くないです。老婆心で言いますが、やめた方がいいと思いますよ。ほんっっっっっっっっっとうに不快なので。

獣ノ医術師になるための学舎なのに……?

 43話、エリンが教導師として授業をしています。

 山リンゴの接ぎ木の。

 ここ、多分一般教養として園芸の授業があったんだろうなぁと好意的解釈をするように努めて、突っ込むの控えてたんですけど、やっぱり、いつ見ても、何度見てもおかしいなぁと思えてしまって。

 真王領には学舎は複数あります。そのうち、タムユアンはいろんな学科のある学舎であるのに対して、カザルムは獣ノ医術師を養成する専門学校みたいなもののはずなのですがね、なんで素直に山羊や牛の搾乳とか、羊の毛刈りの実習みたいな、獣医学校として不自然でないカリキュラムをさせないのでしょうか。

 穿った見方をすれば、37話で登場させたオリジナルキャラ・シロンを一話で使い捨てにするのが勿体なくて、なんとか再利用できないかと知恵を絞ったのでしょう。原作では詳述されていないリランの出産をちゃんと描ききりたいという心意気は買いますけれども、はて、あの回にほんとうにオリキャラが必要だったかと言えば...ゴニョゴニョ。
 で、もう一回くらい使ってやらないと可哀想だからって、エリンにひっかけて山リンゴの接ぎ木の授業、しかも「来年、初めてできた実をエリン先生にあげる!」などという殊勝なセリフを吐かせたりして。
 この場面は、ハルミヤが亡くなってお先真っ暗って心境のエリンと、躊躇なく未来を夢見ているシロンとの対比を意図したんでしょうけどね。そうでないなら、ロリヲタへのサービスでしょうね。

 ちなみに、品種にもよるのですが、リンゴの接ぎ木でちゃんと実がなるのって、1年なんて短期間じゃないような...。ちょっと調べただけでも、6年とかかかってるよヲイw

 でもですね、オリキャラを一話で使い捨てるご都合主義と、獣医学校で園芸の授業をさせる奇妙さとを天秤にかけたら、後者のほうがより「みっともない」と私は思うので、やめてほしかったです。