50話、総括@アニメ『獣の奏者エリン』再考@エリンの木の下で

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ここは、上橋菜穂子さんの長編小説『獣の奏者』をもとに制作されたNHKアニメ『獣の奏者エリン』について語る裏ページです。
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ここを初めて見つけた方には、まずはじめにをお読みいただくことをお勧めします。

50話、総括


2013-03-13 更新

ぱっと見は大団円、けれども...

 本放送の最中に続編となる「探求編・完結編」が発行されたことで、最終回前から、某掲示板ではアニメ続編の実現の可能性について語られ始めていたので、私は大きな不安を抱いてその日を迎えました。回が進むにつれ、原作とアニメの間の溝がどんどん深くなっていって、ついには、「原作にインスパイアされて出来たパラレルワールドの物語」になってしまっていたからです。

 それでも、49話からの流れでいけば、少なくとも子ども向けアニメ的な大団円にはなりそうだな、若干尺が長そうだから、結ばれたイアエリのサービスカットくらい拝めるかもしれないな、などと思っていたのですが、なんとイアルはセリフゼロ、ツーショットゼロという(イアエリファン的に)悲惨な終幕に、激しく落胆したものです。しかもジェシが....あれ...っ!?
 それだけではなく、この終わり方はいろいろな問題を孕んでいました。

50話『獣の奏者』

エリン、イアル(とジェシ)の目と髪の色、その記号的意味合い

 この物語にとって、「人種・民族・血・遺伝」というキーワードたちが大変重要なファクターであることは明らかです。それだけに、キャラクター同士の血の繋がりを示す記号である「目・髪・肌の色」は、特にデリケートに扱うことが求められます。
 そういったビジュアルがストーリーを左右しない作品であれば、もちろん、多様な色の髪や目の色のキャラクターが跋扈していても構いません。
 実際、数多のアニメの中には、目も髪も肌も好き放題の色を野放図に使い散らかして、親子も兄弟も人種も国もまったく判別不能なキャラの出てくる作品もたしかにあります。いっそそれならそれでいいでしょう。

 けれど、『獣の奏者』はそういう作品ではありません。
 「金色の目と髪の一族」「緑の目の一族」という単語が幾度となく登場する作品を視覚化するにあたり、最低限守るべき生物学的法則があることは、制作に携わるすべての方々がきっちり認識しておられるものと思っていました。
 現に、エリンの髪まで緑にという蛇足的な改変はありつつ、真王一族とアォー・ロウにそれぞれ一目で分かる記号を与えることで、一定のルールを意識させることには成功していたと思うのです。

 しかし、残念ながら、最後の最後に大きな過ちが看過されてしまいました。

 原作のエリンは、目はもちろんアォー・ロウ特有の緑色ですが、髪の毛は麦藁色だということになっています。
 それがアニメでは、ビジュアル的な理由だけで緑に変更されてしまったのは、10話で一度指摘した通りです。
 原作のままの麦藁色の髪であれば、リョザは多人種国家なのか、特段珍しくもないのでしょう、エリンの素性は遠目にはばれにくいとされています。だから、エリンはジョウンに連れられてにぎやかな街中に出ても、さほど臆せずにふるまっていられたのです。
 でも、緑色の目に髪までもがセットになってアォー・ロウ固有のもの、実質的に「記号」として機能してしまうと、事情は大きく変わってきます。どこにいても個体識別ばっちり。エリンのこの国での肩身の狭さは原作の比ではありません。
 念のため、アニメ全編にわたって注意深く見てみましたが、リョザ新王国の住民の中で、目も髪も緑色なのは、明言はされていないものの、アォー・ロウだけのようです。
 ソヨンとエリンの母子が緑の目と髪、リョザの王族もまた、金の目と髪で統一されているということは、架空の世界と言えど、一定の生物学的法則は生きている世界だという印象を、これまで視聴者は散々与えられてきたのです。

 ちなみに、この緑の髪の毛という設定は、続編を作る時にはいささか問題になります。探求編でエリンが逃避行をするとき、その障害になるのは目の色だけ。髪の色で身元がばれてしまってはいけないシーンがあるのですよ。
 そのときは最悪、髪の色まで染めるような変装をエリンにさせるつもりなのかな? いえ、そもそも続編なんて作ろうとさえしなけれぱいいのですから、続編反対派の私が心配することではないのですがw

ジェシの黒い髪は重大な裏切り

 さて、上記の約束事を踏まえて物語を見てきたものとして、エリンの緑色の髪は100歩譲って許容するとしましょう。
 そのエリンとウンコ色(環境光の影響を受けやすいのか色指定にかなり幅があったですが、基本はオープニングの色ですよね?)の髪のイアルとの間に生まれたジェシの髪が、せめてどちらかと同じ色であれば、まだましだったのです。
 しかし、ジェシはなぜか、黒髪でした。
 これにはほんとうに、驚くというより憤りました。

 一方では遺伝のルールを厳密に描いておきながら、もう一方でそのルールを反古にして、いたずらに視聴者を混乱させる、このような意図の不明確な改変には、なにひとつメリットはありません。ヌクモクやキリクのような、いらぬキャラをひねり出したことなどとは比べ物にならないほど、悪質だと思っています。

 現に最終回、ジェシの髪の色を見て、「あれはトムラの子では!?」と誤解した視聴者が少なくなかったのです。そんなミス・リーディングを遊び心でしてしまった(ようなコメントをされている)後藤氏に、今、どう考えておられるのか、伺ってみたい気がします。
 そして、GOサインを出されてしまった上橋先生ご本人に対しても、私は正直なところ、今でも若干の不信感が拭えずにいるのですよね...。

ラストシーンから総括

 いかがでしたでしょうか。
 おおむねお気づきのことばかりでしたか? ひとつふたつでも、初めて気づいてなるほど、と思われるような点がありましたでしょうか。
 ご自身の、この作品を見る目が変わりましたか?
 おそらく多くの方はそれでも、「細かいことはともかくとして、アニメはアニメでいいじゃないか」とお考えだと思います。

 奇遇ですね。
 実は、わたしもそうなんですよ。
 だからこそ、アニメエリンはあそこで潔く終わるべきだと思っているのです。

ラストシーンが暗示する、アニメエリンの「その先のリョザ新王国」

 ジェシの髪の色への憤りは今でもおさまっていないのですが、幼いジェシが竪琴を奏でてアルに語りかけているラストシーンを初めて見たとき、私はほっと胸をなで下ろしていたのです。まだ今ほど色々な問題について深く考えていなかったということもありますが、とにもかくにも、「ああ、このアニメはここで完全に終えるつもりなんだな」と確信したから。

 原作の探求編・完結編のエリンには、ジェシに竪琴を「あえて」持たせようとしなかったふしがあります。
 なぜなら、そこで明らかになるように、エリンは、王獣の訓練を始めてからの6年間、イアルの最後の休暇まで、イアルに自分の訓練の模様を一度も見せていなかったばかりか、それまでの結ばれてからの10年間も、イアルとリランを引き会わせてすらいませんでした。イアルを自分側の柵に巻きこむことをずうっと恐れつづけていたからでしょう。
 この、公私混同を嫌い、夫婦でありながらもそれぞれのリスクを共有してしまうことをギリギリのところで回避しようとする姿勢が、エリンの人物像にとって重要な要素なのだと私は感じています。
 奏者の技を持つ自分がいつまた、政の駒として扱われないとも限らない不安定な状況下で、エリンがそれをジェシに伝えようと思うはずがないし、原作の世界は実際、降臨の野の出来事のあと11年経っても、エリンがそんな気になれるような能天気な世界ではなかった。

 乳飲み子の頃から王獣たちのそばにいて母の竪琴を目にしていながら、ジェシにはそんな母の姿を模倣しようとしたような形跡が一切なく、竪琴を手にした描写すらないほどの関わりの薄さ。それは、自分と同じ技を身につけてしまったら、早い時期にジェシは陰謀に巻き込まれる可能性があると、聡いエリンが考えたゆえのことと思うのです。
 おそらく、エリンはジェシに竪琴に触れることをはっきりと禁じていたか、少なくとも言外に遠ざけていたのだろうと推測しています。

 そういうことを一切鑑みず、アニメのあのラストに探求編以降のストーリーを継ごうとすれば、8歳のジェシがもう最初から竪琴を扱える前提で始まらなければいけません。イアルの竪琴職人設定と合わせると、それがストーリー全体に与える影響は、思った以上に大きいと思います。あのラストシーンを見たあとでは、イアルもジェシも、エリンと替えの利く駒として常に狙われるような展開を考えずにいられないのは、私が底意地が悪いからなのでしょうか。
 そうなってから、ジェシが竪琴を使うことを許した自分を責めたり悔いたりするようなエリンを、私は見たくないのです。

「僕らのエリンたちには、こういう未来を与えることにしましたよ」

 幼いジェシが、父お手製の竪琴でアルに語りかける、美しいラストシーン。
 あれは、アニメが原作と完全に袂を分かったことを告げるスタッフからのメッセージだったと、私は理解しました。

 上橋先生が藤咲氏に探求編・完結編のゲラをお見せになった時期からすれば、このラストシーンにはまだ、続編を作りやすくするための若干の軌道修正の余地があったはず。
 でも、そうしなかった。ラストシーンのエリンとジェシはもはや、そんな憂いを微塵も感じさせなかった。エリンがジェシに自分の奏者の技を安心して伝えられるほど、平和で安定した世界になっていたということですよね。ならば、あの後にはもう、エリンとイアルが「刹那」であんなにも互いが結ばれることをためらい、危惧していたような"惨い運命"が待っていてはいけないでしょう?

 ですので私も、よもや彼らアニメ制作サイドが「続編」に欲目を持っておられるとは思っていなかったのですが、昨年春に発行された「アニメ監修日誌」の冒頭の座談会を読むと、どうも藤咲氏は続編への野望を捨てていないらしいのですよね。

 改変して明示してしまった原作と違う事実をなかったことにしたり、思いつきで登場させたオリジナルのキャラが続編にそぐわないからといって元からいなかったことにするおつもりですか?
 それとも、もはや引っ込みがつかないからと、それらをさらに活用すべく、原作の破壊を続けていくおつもりですか?
 どちらもそう簡単なことではないと、私は思うのですよ。

 あれがただのリップサービスであったとしたら、大きな釣り針に食らいついてこんなページを設けてしまった必死な俺乙! ですむ話なのですが、再び作品に脚光があたるこういう機会があると、どうしても心配になってしまうのですよね。
 この不安がまったくの私の杞憂であってくれ、と願うばかりです。

独創的な作品を既製の型に嵌めんとする愚

 それにしてもなぜ、ここまで原作とアニメとの間に深い溝が出来てしまったのでしょうか。
 原因は、すでに美しい形に出来上がっていた原作を、NHK側が用意した「21世紀のハイジ」という型に押し込めようとして、原作をバラし、都合のいい部材だけを選んで、部材の形(設定)や仕口(エピソード)を無理矢理変えて組み直そうとしたことに端を発しているのだと思います。
 また、話を膨らまそうとして余分な部材(オリジナルキャラ)を増やしながら、臍の調整(考証)ややすりがけ(辻褄合わせ)が不十分だったために、組み上がった形が不自然に歪んだり、ささくれ立って雑に見えたりしてしまった。

 そんなのどんな原作つきアニメでも日常的に行われていることで、うまくいっているものもたまにはあるのでしょう。が、残念なことに、この作品に関しては、あまりいい仕事ではなかったと思うのです。

 率直に言って、杜撰だったな、と。

出来たものだけを見て揚げ足を取るのは簡単?

 指摘を受けなければ気づかないような、ささいな問題を挙げつらうために重箱の隅をつつきまくった私に対して、そう思われる方もおられるでしょう。話数の離れた場面同士の整合性の欠如などは、「気づいた時には手遅れだった」のかもしれません。でも、挙げてきた問題それぞれについては、重要度の差こそあれ、間違った指摘はしていないつもりですので、制作時にもっと注意深く、きめ細かい配慮やチェックをしていれば、防げたミスもたくさんあったのではと思っています。

 私の指摘の中に、理解不足による誤りがありましたら、是非お知らせください。
 「そんなはずはない、それではもっとマズいからあれでよかったんだ」と思われるものがあれば是非、ご教示ください。
 「確かにその通りだったな」と思えるものが一つでもあったら、次の作品でくり返さないようにしていってほしい。その一心で、このページを設けたのです。

 原作をもっと尊重してください。
 お願いですから、安易な改変をしないでください。
 ミスをくり返さないという確信がないのならば、探求編・完結編にはどうぞ、触手を伸ばさないでください。
 関係者のみなさま、よろしくお願いします。

 以上、お読みくださり、ありがとうございました。

2011.5.7 kemomo

P.S.

 最後に、まさかお読みになりはしないと思いますが、上橋先生に。
 先生ご本人にもお耳の痛いことが少なからずあったやもしれないことを、心苦しく思っております。
 面倒な原作厨ではありますが、新たな傑作を待望する気持ちには一片の嘘偽りもございません。
 先生のさらなるご活躍を心よりお祈り申し上げます。